安心と自由の葛藤

 近ごろ物騒な事件が多発している。いわゆる「誰でもよかった」という言葉で象徴されるような無差別殺傷事件である。新聞報道によると今年(平成20年)はすでに、この種の犯罪事件が昨年の倍にあたる8件も発生しているという。事件発生のたびにマスコミは、同じような手法で番組を編集し、それらの共通点を探したうえで、結局、「誰でもよかった」というキーワードをつくりあげてしまった。しかし本当に、彼らは口をそろえて「誰でもよかった」と言ったのだろうか。ことによると、「誰でもよかった」とは、見ず知らずの第三者が象徴する社会という得体の知れない権力に対する反逆ではなかったのだろうか。マスコミを含めた権力の側からは、常に本人の自己責任が追求されることはあっても、社会システムの本質的欠陥について論じるような視点はほとんど提供されることはない。
 東京で都市化が急激に進行し始めたのは東京オリンピックの開かれた1964年前後のことだ。まだまだ武蔵野の面影を残していた近郊の土地が次々と開発され、そこにはニュータウンが造成された。これにともなって新しい駅ができ、通勤のためのバスが開通し、買い物の便宜にとマーケットが次々に開店した。そして故郷のムラを離れた若者たちが、ここで核家族として生活するようになったのである。
 このニュータウンの開発によって、これまであった既存のムラ共同体はすっかり機能不全に陥ってしまった。まったく皮肉なこととは言えその原因は、都市の労働力として故郷のムラを捨てた若者たちが、次々に「他者の規範」を持ってムラへ流入してきたからであった。当時の様子を、「田舎のいやらしさはクモの巣のようで、おせっかいのベタベタ、息がつまりそう」そして、ムラの人間関係を指して「義理と人情の蟻地獄」、だから自由を求めて町へ出たと歌ったのは、70年代のフォークシンガー岡林信康であった。しかし、出てきた町はどうだったのだろうか。彼は続けてこう歌う。「町の味気なさは砂漠のよう、・・・ニヒリズム無人島・・・俺らいちぬけた」。結局、歌のなかで彼は、「命あるものの流れに沿って、今夜町を出よう」と締めくくる。
 我々はもともとムラという暖かいコミュニティで暮らしていた。そこはリラックスして安心できる場所であった。誰もがお互いを理解しており、相手の善意を期待できた。倒れたら、誰かが手を貸してくれたし、困窮したときは、何の見返りも求めず苦境から救ってくれた。いわば信頼でつながった相互扶助が十分に機能していたと言ってよい。
 しかし、都市化が進み、ヒトの移動が容易になり、ライフスタイルに変化が生じ始めると、途端にこの無条件な相互扶助が機能しなくなってしまった。口約束は契約書となり、借金には担保が必要となった。そして信頼に基づくこれまでの相互扶助は、「公的」な扶助制度というシステムに取って変わってしまったのである。その一方で、故郷のムラを離れたものの、新たなコミュニティにも馴染めない若者たちは、一体どうなってしまったのだろうか。岡林の歌にあるように町を出て、また故郷へ戻って行ったのだろうか。決してそんなことはなかった。
 戦後の高度成長期、企業にとって確かな労働力である若者たちは、貴重な存在であった。そしてこの労働力を確保するため企業は、擬似ムラ共同体としての中間団体を利用した。すなわち、企業と個人との間に「緩衝装置」としての中間団体を巧みに組み込むことで、労働者間の信頼関係を構築し、これを愛社精神に転化することで、企業自身の生産性の向上を図ろうとしたのである。
 このシステムは実によく機能した。リクリエーションや組合運動などの諸活動を通して労働者間の信頼が醸成されたばかりでなく、これによってできた「つながり」が、所属する企業の生産活動に貢献する仕掛けになっていたからである。不思議なことにこのシステムそのものは、ムラ共同体と同様に、自己の安心を得るのと引き換えに自由を犠牲にしなければならなかったはずなのだが、企業と個人との緩衝装置として機能したこの中間団体に、彼ら労働者は“それ”を感じとることができなかった。
 しかし昨今、こうした企業に組み込まれた中間団体が機能不全を起こし始めた。その理由のひとつは、「私」第一主義とでもいう個人の生活を重視する考え方の台頭である。この個人の自由な生き方を肯定し、個人を大切にする風潮は、組織への帰属意識や社会への参加意欲を低下させ、脱社会、脱組織的な傾向を強めることになった。これにより、個人的な生活の充実が図られる一方で、個人は緩衝装置のないままで、企業という営利をむき出しにした組織と直接対峙することになってしまったのである。ここに、もはや個人ではとうてい解決不可能な強者と弱者の明確な対立構造が出現した。
 では、このどうしようもない対立構造のなかで、個人と組織がどう向き合ったらいいのだろうか。この問題は個人が生活していくうえで、安心と自由をどうバランスさせていくかに大きく係わっている。すなわち、我々を守り包み込んでくれた暖かな場所であるムラ共同体というコミュニティから一度出てしまった以上、自由という通貨を支払っても安心を得るべきなのか、それとも自己の安心を犠牲にしても自由の獲得を目指すべきなのか、この解決できない問題を永遠に考え続けなければならなくなったのである。こう考えたとき、先の「誰でもよかった」と無差別殺傷事件を起こした彼らは、自己の安心など考えず自由に飛びつきはしたものの、その自由を奪う得体の知れない大きな力に押し潰されてしまったと言ってよいのかも知れない。