SDと大学職員の専門性 −SDは専門性を涵養するのか

 大綱化以来、大学改革が急速に進展することになったが、その改革モデルはご存知のようにアメリカの大学制度を範(グローバルモデル)にしたものであった。例としては、大学のミッションを始めとして、シラバス、授業評価、F.D.、G.P.A.などなど枚挙に暇がない。SDもまた、この文脈のなかで、広く職員の能力開発という意味で使われてきた。
 そして、従前の職員の地位向上運動から脱皮し、このSDをひとつのマジックワードとして、各種研修や高度専門職を養成する大学院教育がなされ、所謂、教員と協働できるアドミニストレーター、大学経営人材、プロフェッショナルな職員といった者たちの出現が期待されてきたところである。
 また近時、こうした職員を養成するプログラムが組織の壁を越え、すでに実施されようとしている。しかしその一方で、大綱化以来20年近くを経て、大学職員はどのように変化したのであろうか。大学はSDをとおしてどのような職員像を期待しているのか。各国の大学職員のありようといった専門的な各論の展開はすでに充分になされているが、こうした素朴な疑問にたいするフィードバックは、一部の研究をとおして以外にほとんどなされていない。
 したがってここでは、あえて無意味と思われるような総論的な素朴な疑問をとおし、SDと大学職員の専門性について考えてみたい。そうすることで、理念的な総論と実践的な各論との矛盾点の議論を契機に相互補完がなされ、今後の問題解決への新たなる第一歩を踏み出せると思うからである。


問題の所在


SDとはいったいどんな職員の能力開発をめざしているのか?

組織の壁を越えた大学職員の能力開発への試みもなされているが、基本的には組織の規模や風土によってSDの捉え方は著しく異なっている。また、こうした試みと大学院教育との関係をどうとらえたらいいのか。すなわち、SDは所属する組織を介在して行なわれるべきなのか、それともこれとは無関係に個人ベースでなされなければならないのか。この問題は今後生じる大学職員のモビリティとも深く関わっている。いわば、終身雇用を念頭におく組織に縛られたローカルな職員が必要なのか、モビリティを前提としたグローバルな職員が必要なのかといった問題に置き換えていい。


SDの位置づけは果たして正しいのだろうか。

FDが導入された裏返しとしてSDが現在評価されているのだとすれば、それは正しいあり方ではないだろう。従来なされてきた職員の地位向上運動の延長線上で、現在のSDが発想され実践されているとすれば、SDをとおして達成する職員の専門職化とはまさに、職員の教員化と同義であるとの非難を免れ得ない。
望むべくは、SDを大学という呪縛から開放し、世間で通用する能力開発と同義に考える発想の転換がなされることである。もはやSDは職員の地位向上運動などではなく、能力開発であると認識すべきである。とはいえ、すべての大学が歴史の展開のごとく一律に、、歩調を合わせ改革できないうらみは、依然として存在する。


SDによって職員の専門性が涵養されるだろうか

 これまで実施されてきたSDによって、大学職員の専門性が涵養されてきたのだろうか。大綱化からほぼ20年を経た現在、さまざまな提言こそなされているが、確固たるエビデンスに裏打ちされた報告はまだなされていない。また、専門性という観点に注目するなら、すべての職員に専門性が問われているかとの疑問もある。仮にそうであるとすれば、職員の専門性をどのようなものと捉えるべきなのか。アドミニストレーター、大学経営人材、プロフェッショナルな職員といった言葉が先行し、共通認識への具体的な検討がほとんどなされていないのが現状ではないのだろうか。


SDによって涵養される職員の専門性とは(私見

 SDによって涵養される職員の専門性を一義的に捉えることは困難である。すなわち、専門性そのものを伝統的な職業類型である法律家や医師、大学教員といった有資格者と同義に捉えてはならない。むしろ専門性を自己のコア・コンピタンスをどう高めるかという観点から捉えなおし、たとえ公認の資格やディシプリンを証明するようなもの(たとえば学位)を有せずとも、「自己の強み(専門性)を所属する組織をとおして発揮し、組織や社会に貢献することで自己実現すること」と捉えれば、この目標を大学職員一般がめざす専門性ととらえることも可能であろう。従来の専門性の捉え方には、ごく一部の(選ばれた)職員を対象にした嫌いがあったようにも思われる。したがってこのように捉え直すことによって、職員の専門性へのアプローチが、より身近なものになるのではなかろうか。