大学のおける大学職員に位置づけとは

 大学において職員をどのように位置づけるかは、古くて新しい問題である。大学職員が所謂「stuff」として大学の管理運営の一翼を担うべきであるといった主張は、早くも昭和37年、名古屋大学の事務局長であった蠟山政道が事務機構の問題点を指摘しつつ、大学の事務を一般行政から切り離すべきだとする文脈のなかでなされている。
 また、昭和40年には、永井道雄がその著書「日本の大学」で事務機構の改革に触れ、「事務職員は・・・(中略)・・・研究、教育、その他高等教育機関の基本的性格について理解を欠くことが少なくない。アメリカでは・・・(中略)・・・すでに専門化されているが・・・(中略)・・・教育行政家は、特別な専門家として取り扱われなければならぬ。法律や財政だけでなく、教育思想史、大学の歴史、科学技術の現状、学生の生活などについて深い知識をもつ専門家として教育を受けたものが、今後の大学の運営を担当しなければならない」と指摘しており、さらに教員と職員の関係について、「このような改革が行われれば、教師と事務職は、分業しながら、しかも対等の立場で協力を深めることができるであろう。・・・(中略)・・・職業内容が充実すれば、事務職員は職場に生きがいを感じ、自由な大学の建設のために大きな役割を果たすに違いない。・・・(中略)・・・私立の大学も、この種の専門家による事務機構の改革をへて、はじめて近代化される」と述べている。しかし戦後ほどなく、こうした主張や提言がなされてきたにもかかわらず、大学改革に関する諸答申においては、事務機構の改革についの提言がなされることはあっても、大学職員についてはほとんど触れられることはなかった。
 こうしたなかで初めて、大学職員について政策提言がなされたのは、2005年1月の中教審答申「我が国の高等教育の将来像」、俗に言う「将来像答申」であった。そこには、「高等教育の質の保証を考える上では、教員個々人の教育・研究能力の向上や事務職員・技術職員等を含めた管理運営や教育・研究支援の充実を図ることも極めて重要である。評価とファカルティ・ディベロップメント(FD)やスタッフ・ディベロップメント(SD)等の自主的な取組との連携方策等も今後の重要な課題である」と提言されただけでなく、加えて、SDとは「事務職員や技術職員など教職員全員を対象とした、管理運営や教育・研究支援までを含めた資質向上のための組織的な取組を指す」と注記されていた。
 さらに近時に至って、2008年の中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」の第3章「2 大学職員の能力開発」では、「大学経営をめぐる課題が高度化・複雑化する中、職員の職能開発(スタッフ・ディベロップメント)はますます重要となってきている」と指摘したうえで、SDの定義については、将来像答申の「教職員全員」から「事務職員や技術職員など職員」と限定し、さらに一歩前進した「FDと区別し,職員の職能開発の活動に限定してSDの語を用い」るといった注釈が付されている。
 こうしたSD活動を通じた政策提言がなされる過程で、職員の意識改革やその専門職化が注目されるようになったばかりか、わが国における大学改革のモデルであるアメリカの大学の「アドミニストレーター」を念頭に置いた、「アドミニストレーター論」や「大学経営人材論」が展開されるようになったことは周知のとおりである。
 その後、こうした議論を背景に、大学職員に特化した高度専門職養成大学院が創設されたり、アメリカの職能団体を模した「大学行政管理学会」が設立されて、大学職員のありようをめぐる「大学職員論」がさかんに議論されるようになったが、現在に至るも、わが国の大学職員を的確に表現できるようなtermは見つかっていない。
 また、先に永井道雄が指摘しているとおり、大学職員のあり方についての問題の所在は、①大学職員の専門職化をどうとらえるか ②教員と職員との協働をどうはかるか、と言った問題に集約されはするものの、こちらも依然として未解決のままである。
 振り返ってみれば、我が国の大学改革の強い後押しとなったのは、経済財政諮問会議構造改革議論のなかから生まれた「大学の構造改革の方針」であり、これは、規制緩和により高等教育のマーケットの競争力を強化し、大学に民間の経営手法を導入することにより、国立大学(特に旧帝大)への資金の集中的配分と私立大学の淘汰を狙ったものに他ならない。
 かたやアメリカでは、高等教育の機能分化が図られているだけでなく、戦後、Higher Education for Allの標語のもと、アメリカ国民のすべてが、少なくとも高等学校卒業後に2年間の高等教育を受けられるようにとの政策提言うけ、これを実現すべく、2年制大学であるcommunity collegeを活用した高等教育大衆化とあわせ、この2年制システムが高等教育を受けるに値する学生の自然淘汰(cooling out)にも利用され、今やアメリカの大学は、高等教育のグローバルスタンダードとなっている。
 また、ヨーロッパにおいては、1987年のエラスムス計画に端を発し、ソクラテス計画、EU生涯学習計画へと展開しつつ、学生・教職員の交流をつうじてヨーロッパ各大学間の連携強化だけでなく、学位(degree)の標準化もはかられつつある。
 これに対しわが国の高等教育市場は、18歳人口の減少、将来を展望した高等教育政策の欠如、経済の低迷による財政的影響など、まったく閉塞状況のなかにある。こうしたなかで、わが国の大学が世界の大学に伍するためには、どうしたらよいか。国による確固とした高等教育政策がないまま無批判に、弱肉強食の競争原理であるとか、民間的な手法だとして小手先のマネジメントやリーダーシップを導入してよいものなのだろうか。
 高等教育の液状化現象がますます進みマーケットが縮小してゆくなか、いま解決すべき重要なことは、確固たる政策を背景に、個別大学の職員が担当部署でどう仕事をなすべきかというミクロなことよりもむしろ、今後、わが国の高等教育を担う大学職員がどうあるべきか、というマクロな問題の方であろう。
 そうした観点からアプローチすることで、これまで解決できなかった「大学職員の専門職化」や、これを前提にした「教員と職員の協働」といった問題の解決へさらに一歩近づくことができるだけでなく、永井の主張した「自由な大学」の建設に大学職員が寄与できるようになるのではなかろうか。