大学職員論再考 ―アメリカとわが国の学位のとらえ方の違いー

 近年、大学において教員の仕事とされてきた管理運営業務を、職員が担当する場面が増えている。その背景には、大学の大衆化が進むなか、従来の研究業績もさることながら、教員の教育力が問われるようになり、大学行政にかかわっている時間的余裕がなくなったという事情が存在する。このような状況を捉え、総論として、教員は教育研究に、職員は管理運営に、それぞれ専念するという「役割分担論」は非常に合理的であり歓迎されているものの、その一方で教員側からは、自分たちが担当してきた管理運営業務を職員に委ねるには、少なくとも教員に準じた基礎資格くらいは所持すべきではないのか、との指摘もある。すなわちその基礎資格とは、担当業務に関する専門知識の証ともいえる「学位」が必要だということである。もっとも大学で管理運営を担当してきた教員が、皆その担当業務に精通し、専門的な知識を持っていたかといえば、いささか疑問の余地は残るが、ここではその問題はひとまず置くことにする。
 こうした文脈のかなで、アメリカのアドミニストレーターを念頭に置きつつ、「専門性」を持った職員の必要性がさまざまなかたちで議論されるようになったのは、ご存知のとおりである。私学団体もこの職員の専門性に注目し、年齢階層別に、アドミニストレーター養成の研修を実施しはじめている。この動きにさらに拍車をかけたのが、アメリカのプロフェッショナルスクールをモデルにして、専門職業人の養成を目指した高度専門職養成大学院制度の発足である。平成18年度現在すでに、専門職としての大学職員を養成すべく大学院のマスターコースが、東大を始めいくつかの大学に設置されている。
 このように現実はすでに動き出してはいるものの、これら「専門性」を持った職員とはどのような者たちを指すのか、そのモデルは明確でない。まして、専門性についてのコンセンサスさえないところで、これらの者をアドミニストレーターや大学経営人材、行政管理職員などと安易に呼ぶことは、かえって職員の専門性のありかたに混乱を来たすことにならないだろうか。
 そこでアメリカの大学における専門性を持った職員のあり方がどのようになっているかと言えば、その基礎資格は学位を中心に組み立てられている。言い換えれば、専門性の証となる学位を所持することが、特定の職種へ就職する前提となっているのである。それ故に、アメリカでは常にDiploma Mill(ニセ学位)が問題となる土壌が常に存在している。例えば、高等教育の業界紙ともいえるアメリカの「Chronicle of Higher Education」の求人欄を見ると、採用の要件として必要とされる専門学位とそれに関連する業務経験が必ず明記されている。すなわち、アメリカにおいては、まず専門的な学位が採用の最低条件として存在し、そのうえでこれまでの業務経験が評価されているのである。言わば、学位とキャリアが密接不可分となっており、学位で証明された自己の専門性を、個別の大学においてどのように機能させるかが問われているといってよい。専門性の基礎のうえに、当該大学で必要とされるスキルが付加されると言い換えてもいい。
 これに対し、わが国における大学職員の専門性というとき、それは国家資格のようなものを所持するごく限られた者の専門性か、もしくは単に業務のベテランを指し示していることが多く、学位と直結するような意味での専門性が存在しているわけではない。ここに、アメリカとの比較において、職員の専門性を論じる場合、おおきなズレが存在する。
 わが国では、大学ばかりでなく社会一般に、科学技術に関するアカデミックな学位はともかくとして、実務的な学位はアメリカのように評価されてはいない傾向にある。このことは、企業内におけるMBA取得者の評価をみても明らかなことである。すなわち、わが国では、実務的な能力は学位によらず、企業内の研修などでスキルアップすることが前提となっており、その達成度によって評価されるからである。そこには共通する専門用語によって、学位で保障される専門性を基礎に、各職場風土にあわせ必要とされるスキルを付加するといった発想はない。あるのは、個別的なスキルをさみだれ式、必要に応じて身につけるといった、よい意味で効率的な、悪い言い方をするとパッチワーク的な発想である。
 このように職員の「専門性」の捉え方の一端だけでも、わが国とアメリカとでは異なっている。従って、今盛んに論じられている大学職員の「専門性」のあり方についても、その違いを充分に理解することなく一律に「専門性」として論じてしまうと、「One fits for all」となってしまう恐れがある。今後の職員論を展開してゆくうえで、いたずらに迷路に迷い込んでいかないためにも、今一度慎重な内容の検証が必要ではないのだろうか。